「沈丁花」  エツコ-spinningball-コヤス

 

 私にとって春は少し嬉しくて、少し憂鬱なとき。 肩の凝るコートとはおさらばだけれど、強まりだす陽の光に触発されて、体の細胞のひとつひとつが目覚め働きはじめる。そうなるとボンヤリしてはいられない。頬のてっぺんにいつのまにかできてしまったちいさなシミまでも、仲間を増やそうと躍起になっている。肌の表面でざわつく気配を感じて、表を歩くのにも日陰を探してしまう。木枯らし吹きすさぶ冬には待ち焦がれ、ようやく来た春だというのに、もう日焼け止めクリームに手が伸びている。
 ある暖かな日の午後、まだ小さな娘と散歩に出掛けたときもそんなだった。
「やっぱり帽子を持って来るんだった」
後悔先に立たずの言葉通り、さっきまで花曇りだった空に風が吹いて雲が早い速度で通り過ぎ、きらりと太陽が顔を出した。足元には濃い影が大きいのと小さいの二つ並んでいる。娘は短い歩幅ながらちょこちょこと歩き回り、あっちの家の犬、通りすがりのネコ、通りすがりのおじいさんたちに「コンチワ」と挨拶をしている。私はそれを見ながら少し気恥ずかしい感じで「どうも」と娘の小さな頭に手をやる 。

「まったく…」
とつぶやく私の事は気にも止めず、2、3歩前を歩き始めた娘がふいに
「オハナ−!」
と叫んでよその家の玄関先に駆け込んで行った。私は
「ちょっとちょっと」
と後を追っていく。小走りに追い掛けながら
「あ、この匂い」
とその花の存在に気づいた。沈丁花だ。しかし、花の姿はどこにも見えない。一体、娘はどこに花があるというのだろう。私もしゃがんで、娘の目線になってみる。すると、背の高い山茶花の茂った枝の下、申し訳なさそうにぽんぽんと白い花が覗いていた。 娘は
「カワイー」
と大きな声で言った。
「うん、可愛い。」
と私もつぶやいた。
沈丁花。娘と私の生まれたこの季節に咲く花。濃い緑色の葉は元気よく張りがあり、赤紫色の蕾と白い花のあつまった、丸い手毬のような形。清らかな香りは春の光りに刺激された肌をすうっとなでてくれるようだ。 そういえば、沈丁花は日陰で咲いている方が良い香りがするように思う。日向で沢山の花をつけているのもよく見かけるが、日陰の花と比べると香りも薄く、花そのものも清楚さを失って見える。青みを帯びた白い花も瑞々しい香りも、鋭い日射しに触れない場所にあるからこそしっとりと保たれているのかもしれない。 私は思い付き
「新しい帽子、買いに行こうか。」
花に触れる娘に言ってみる。 見上げる娘は
「ボーシ、カイイク」
とうなずいた。 娘は本当にわかっているのかいないのか、でも花のそばを離れ、私の指を握った。
「別に私が花ってワケじゃ無いけどさ」
私はひとり思いながら、もう一度花の香りのする空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
並んで歩き出す私達を、沈丁花が静かに見送ってくれている気がした。

 


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