たらちね日記 vol.1 便利な世の中 エツコ-spinningball-コヤス
9ヶ月になる我が子のお尻を拭いていてふと思った。
「お尻拭き」なるものは、なんて便利なのだろう?と。
パックを開け取り出した時すでにホド良く濡れていて、使用後は捨ててしまえる 。
不織物なので簡単には破れない、モノによっては水に流せるタイプもある。
紙オムツしかりなのではあるが、こういった品々は昔では考えられなかったモノだ。
私が子供だったころ、我が家のトイレにあったのは、クルクル巻かれたトイレットペーパーではなく、「落とし紙」というような、柔らかいA4サイズ程の紙だった。
もちろん、トイレ自体も水洗では無かった。今ではもう、あの紙をどこかのトイレで見かける事はなくなってしまい、また、ピンクや緑色の球状をした、芳香剤(もしくは消臭剤)のキツイ匂いもしなくなった。
最近のモノは陶器で出来ていたり、水洗の水が青や緑になる洗浄タイプだったりする。
時が経てば色んなモノが様変わりしていくものである。
ティッシュペーパーは、いつ頃発売後されていたのかはわからないが、ウチにはしばらくはなかったように思う。
始末屋だった祖母がそのようなモノに手を出すはずは無かった。
贅沢は敵と言われた時代の人だったから、食品ラップなどもなかなか使おうとしなかったし、掃除をするのも長いこと、はたきとホウキだった。
小学校中学年くらいになった頃、友だちの家に行き、我が家に無いものがすべてあったのには驚いた。
「ココんち金持ちなんだなぁ。」
と感動した。私は、新しいモノに対する免疫はその頃から無かったのかもしれない。
現在でも、流行は知識としてはあっても体験するまでに時間がかかるのはその頃の名残りだ。
いつもハヤリが去ってから試すので、安全だが新鮮さに欠ける人生かもしれない。携帯電話も、いまだに持ってはいない。
しかし、もし、私達が祖母のように、贅沢は敵というくらいに、不便ながらも新しいモノを拒否し続けていたら、こんなに自然を壊さず来れたのだろうか? 文明や科学は進歩を遅らせ、同時に水や空気を美しいままで保つ事ができたのかもしれない。
そう思うと、祖母やそれ以前の人たちに申し訳ないような気持ちになってしまう。
あかぎれだらけの母の手というものは、子供やお家だけじゃなく、あきらかに地球を守って来たのだ。
馴れてしまうと、便利は当たり前になり、なくてはならなくなってしまう。
私は、こんなに馴れてしまった便利な品モノたちに別れを告げる事など出来ないように思う。
自身で子供を産み、育てて行く過程の中で、清らかで美しい自然のありがたみを痛切に感じながらも、相反するケミカルな便利さを否定しきる勇気が無いのだ。
きっと、このように考えている母達は世の中に沢山いるのだろうと思う。
ジレンマを解消するにはどうすれば良いのか、だれか便利な何かやシステムを発明して欲しいものだ。
いつも中途半端なエコロジズムばかりがプカプカ浮かんでいるばかりに思えてしょうがない。