「潮のかほり」 Jun
私は昔から、どちらかと言えば海が苦手な人だ。
海を見にいくとか、砂浜で寝っころがるというのは好き。
でも、とにかく水の中に入ってばしゃばしゃ泳ぐのは得意ではない。
小さいころにプールでおぼれかけた記憶がよみがえるせいか、 潮で体がベタつくのがイヤだったのか、それとも、前髪が濡れたら見られた顔じゃないという理由かどうかは不明だが…(いや、おそらく理由は3番目)。
スポーツも、ゴルフにスキー、テニスにマウンテンバイク…と何でもやってみるタイプだが、サーフィンとかダイビングなど、海系のスポーツは何1つ経験がないのを見 ても、苦手意識があることがよくわかる。
しかしそんなことを言っていても、誘われればほいほいついていく、主体性のないヤツでもある。
大学時代につきあっていた彼(=ダンナである)は、私と正反対で海が大好きな人 だった。
何しろ、生まれ育った家の目の前が海。当然、夏は毎日のように泳ぎまくり、窓から釣りができたというぐらいの環境だったというから(ほ、ほんとかな ?)、その海好きたるや、推して知るべしである。
彼と過ごした夏は2回だが、その間中、彼が口を開けば「海行こうぜ」だった。
今思うと、結構苦痛だったかもしれない…。
それでも、頑張ってついていった。恋する乙女はけなげなものである。
いつもは彼が沖まで泳ぎ、ぷは〜っと気持ちよさそうに砂浜にあがってくるのを眺めているだけの私だったが、そのときは違った。
「おじさんが、由比ヶ浜(神奈川県)にディンギーを持ってるんだ。乗りにいかない ?」
と彼。ディンギーとは、ウィンドサーフィンを少しだけ大きくしたような、2人乗り のヨットのようなものである。
実はこのお誘いも、もう数度目だったのだが、今ひとつ気のりせず、いつも体よく断っていた。
でも彼のひと言がきっかけとなる。
「ディンギーは、セールのロープを引っぱって乗るだけだから気持ちいいよ、風きってさ」
(乗ってるだけ? あ、そうか。ヨットみたいなもんだもんね) そう考え直して快くOKした私だった。
その日は快晴。2人でクラブハウスからディンギーを砂浜に運び出す。
「重いねぇ」
と汗をかきつつ、
(でも、なんかかっこいいじゃん)
私も浮かれて、すっかり乗り気になってきた。
彼がセールを張ったり、ロープを結んで準備している間も、待ちきれないほどだっ た。
「いい? 乗り方はね、このロープをこう持って…」
「うん、了解」
「今日は少し風が強いようだから、気をつけて」
「風が吹いた時はどうするの?」
「ロープをぐーっと引っぱったまま、自分の体を海面に近づけて倒していくんだ。そうすれば、船体とのバランスがとれて倒れないですむから」
「ふ〜ん…」
(ま、彼と一緒に乗るんだし、深く考えなくていいか)
いよいよ準備完了。
2人で船体を海に滑らせた。
セールのロープを担当する私は最初から船体に乗り、後ろで舵をとる彼は、ディンギーを沖まで押してから乗りこむ。
「さあ、じゃオレも乗るよ」
と彼。 うなずいてロープを握りしめる私。
と。砂浜にいるときよりも、風を強く感じた。 1度目はタイミングが合わずに転倒。 もう一度乗り直すも、2度目も失敗。 3度目か4度目でようやく立ち上がった私だった。
しかし、「ふう」と息をつく間もなく強い風が吹き、ディンギーはものすごいスピードで海面を滑り出した。
その勢いたるや「ゴーーーーッ」てなもんである。
こんなとこ ろで倒れてしまったら、 「前髪、濡れちゃう 」 なんてぶりっこしてられないと即断した私は、必至にロープを握りしめた。
「倒れろ、倒れろ! 海面ぎりぎりに体を倒せーっ!」
と彼が叫ぶ。応じる言葉を発する余裕などあるはずもなく、無言のまま倒れこんだ。
「まだまだ、もっともっと」
海面ぎりぎりなんてもんじゃない。 体を反り返して、完全に海に顔を突っ込んでいた。 きっと、周りの人から見れば、
「ひょ〜っ、かっこいい!」
という乗りを見せていたと思う、我ながら…。
その後もディンギーは、ワカメやらなんやらを顔につけたままの私をひきずるようにひたすら走り続け、風が止まると同時に静かに倒れた。◆-◆-◆
今思えば、初めてにしてプロのような乗りを体験してしまったことになる。
不思議なもので、ああいう極限状態の時はスローモーションに感じるものだ。
顔にかかるワカメも、船体や顔をはじく水しぶきも、すべてがスローで流れていった。
それは、海が苦手だった私が、
(潮の香りってこういうものなんだ・・)
と生まれて初めて実感した記念すべき瞬間でもあった。
しかし、非常に残念ではあるが、
(もう、ディンギーは極めたな)
そう勝手に納得した私は、それ以降、2度と由比ヶ浜に足を運ぶことはなかった。