「おつかい」jun

その子の名前は、陽子ちゃん。年は、当時6、7歳だった。
友人の妹で、友人がとてもかわいがっていたことを記憶している。
なにしろ10歳は離れていたし、3人姉弟の長女である友人は、 末っ子で天真爛漫な彼女のことがうらやましくさえあったのだろう。 陽子ちゃんの小さなエピソードをうれしそうに語る友人を、 私はいつも微笑ましくながめていた。

「初めて」で思い出す話は数多いが、私にとってのピカ1は、 その陽子ちゃんの、”初めてのおつかい”のお話である。
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 陽子ちゃんにとって初めてのおつかいは、自転車に乗って5分、の スーパーに行くことだった。
「ほうれん草よ、わかった?」
 ママから100円玉3枚を受け取って、何回も復唱する陽子ちゃん。
「ほうれん草、ほうれん草…」
「いい、くれぐれも車には気をつけるのよ」
「うん、行ってきま〜す」
 左手にお金を握りしめたまま、自転車にまたがると、
「ちりん♪」
 と1回だけベルを鳴らし、走り出した。
 外は、昨日までのどんよりした寒空が、うそのようなぽかぽか陽気である。
(ほうれん草、ほうれん草…)
 塀の上でお昼寝をしているノラネコや、いつもなら挨拶する近所のおばさんのこと もやり過ごし、陽子ちゃんはひたすらそのことだけを考えて、ペダルをこぎ続けた。
 次の角を曲がれば下り坂。そこは、途中で左に大きくカーブしているが、 陽子ちゃんにとっては、いつもの走り慣れた坂である。

 しかし、ほうれん草のことに1点集中していた陽子ちゃんが、 その時ふと、出掛けのママの言葉を思い出した。
「おつりで好きなお菓子を買っていいわよ」
(なににしようかな )
 陽子ちゃんは、”ほうれん草がいくらで、残りのおつりがいくら、そしたら自分が 買えるお菓子は…”なんて考えられるお姉ちゃんではない。 とにかく、自分が今食べたいものをつぎつぎと想像していく。
(チョコレートにしようかな、おまけ付きのキャラメル?それとも…)

 下り坂にさしかかってもなお、お菓子のことを考えていた彼女の目の前を、 ツバメがすっと横切った。
(あ、あぶないっ)
ぼんやりしていたのと、左手にお金を握っていたこともあり、ブレーキが遅れた。 自転車はそのまま、カーブのふくらんだ場所に立っていた電柱に、ごんっ!
陽子ちゃんは、その場で気を失ってしまった。

目がさめた時は病院。 幸い、かすり傷ですんだが、おでこと右ひざがズキズキと痛んだ。

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その後、それまで気丈にも涙を見せなかった陽子ちゃんが、 病室に入ってきたママを見た途端、わんわん、泣いてしまったのだという。
「ああ、そうか。緊張の糸が切れたんだね」と私。
すると、友人は首を横にふり、
「左手をね、陽子が握りしめたままの左手をママに見せるのよ。
で、こぶしを開きながらこう言ったの。
『100円玉1枚しかなくなっちゃったよ〜』って」
笑っちゃうでしょ、そう言いながら、彼女は高らかに笑った。

陽子ちゃんの初めてのおつかいは、惨憺たる結果だった。
でも、そんないわば人生で初めての汚点を、こんな風にあったかく人に話せる お姉ちゃんがいる、陽子ちゃんは幸せだなと思う。

この、陽子ちゃんのおつかいの話を思い出す時、友人のやさしい横顔も、
その時のまま、鮮やかによみがえる。

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