永遠の野球選手
野球の腕を買われ、栗木寛さんが私の勤めていた会社に入社したのは平成元年のことだ。
入社と同時に彼は三菱重工三原硬式野球部に入部し、社会人野球選手としての一歩を踏み出した。
当時、三菱ナインの活躍に約4500人の三菱関連会社社員は盛り上がり、彼らの勝利に三原市民は酔っていた。
市内の酒場などで偶然彼らと席を隣にしたおじさんたちが「昨夜、三菱の野球部と飲んだんじゃ」と自慢するほど、彼らの存在は三原市では大きいものだった。
「 野球をするために来ているんだ 」。
昼の一時から専用のグラウンドで野球の練習は始まる。午前中の仕事には余り関心を持たない選手の多い中、彼は仕事に関しても手を抜くようなことをしなかった。野球と同じ真摯な態度でいつも仕事に臨んでいた。
同じフロアで仕事をしていた私は、
「 ここまでやってから行きます 」 「 練習がすんだら戻ってきます 」
そう言うセリフを彼の口から何度も聞いていたし、実際、日の落ちた練習後に事務所へ戻って仕事をする彼を何度も見かけた。
そんな責任感の強さや信頼感からか平成4年にはコーチ、平成7年にはマネージャーに、平成10年に財団法人日本野球連盟中国地区連盟理事に就任している。
「 多分、体格に恵まれとったら俺、野球続けられへんかったやろうな 」。
いつだったか、彼がそう言ったのを思い出す。
「 常に前を見て進むことを野球から学んだ。全てにおいて諦めたらあかん!人生の縮図が野球であり、今、華が開かなくても努力を惜しまなければ自ずと結果はついてくる
。俺はそう思うで。」。
野球を語るとき、彼の瞳に照れや気負いのようなものは見られない。
身長168センチ、体重62キロ。
スポーツ選手として決して恵まれているとは言えない体格で小学校3年から野球と共に歩んできた彼にとっておそらく野球を語ることは彼そのものを語ることなのだろう。
大学時代、体の小ささで悔しい思いをしたこと、コーチ時代には協調性はあっても主体性に欠ける性格に「 指導者としての在り方 」を悩んだ日々もいい思い出として振り返ることができるのは、今の自分に自信をもっているからにちがいない。
平成13年の夏、三菱三原硬式野球部は会社の経営不振により解散したが三菱ナインは解散と同時に「三菱三原硬式野球クラブ
」を結成し、午後五時に仕事を終えてからの練習を始めた。
「 自分を支えてきてくれた人、また、これから支えようとしてくれる人に対して真直ぐ向合える野球人・選手・人間に自分がなり、選手を導くこと
」が目標だという。そして彼自身、スリーダイヤの旗がなびく中で何年かぶりに指導者の立場から選手に戻り、ボールを追って走り、セカンドベースを守っている。
「 俺の野球の絶頂期? 明日や。いつだってこれでええ、ゆうことないやろ 」。
いたずら坊主のような顔を見せてそう答える。
彼は私にとって永遠で、そしてたった一人の野球選手。いつまでもエールを送りたいプレイヤーなのだ。
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