「ビフィーター」十河梨枝

「ビフィーターをロックで」
女は一人カウンターの奥から2番目の席へ腰をかけてバーテンダーにそう告げた。
しばらくして目の前にコトリ、と置かれたバカラのグラスを持ち上げると、その音とは裏腹に、水色の粒が並んだ細い金のリングをはめている女の白い手にはずしりとくるような重さだった。 においは、ない。
女はその水色の粒の並んだ中指で氷を回してみた。 氷が水になり、その液体へと流れ出て一緒に回る。 同じ透明なのに、女にはそのマーブル模様がはっきりと見えていた。
女はグラスを見つめ、意を決したようにごくりと音を立ててマーブル模様を喉へ、そしてその奥へと流し込んだ。
一瞬、女の身体が揺れた。
「チェイサーは?」
先ほどのバーテンダーが聞いてきた。
「いらない。」
声の主の方を向くことなく女は答えた。
細長く少し胴のくびれたグラスがバカラの横にそっと差し出された。
「女の子が一人で来て飲むようなお酒じゃない。」
バーテンダーは困ったような表情で、けれど、まっすぐに女の目を見つめてそう言った。
女は顔を上げ、そのバーテンダーが初めて見る人物であることに気がついた。
「知らないの、これしか。」
これしか、知らない。 
「ごめんなさい。」
しばらくして女はそれだけいうと下を向き黙り込んでしまった。
 男は金曜日、夕食を一緒に取った後、必ずこの店の厚い木のドアを押した。 女を促し、いつもおくから2番目の席へ腰を下ろした。
「ビフィーターのロック」
と白髪混じりのバーテンダーに注文する。 隣に座った女の方を指して
「こちらにはあまりきつくない飲み物を」
と付け加える。それは時によっては
「柑橘系の」
であったり
「ラムベースで作って」
とか
「赤い色で泡がでる物を」
という場合もあった。  
何度この店の厚くコーヒー色をしたドアを開け、何度この黒く丸いスツールに腰をかけても、男は女の飲み物の名前をバーテンダーに尋ねたことも、女に教えたことも一度もなかった。
「ごめんなさい」の後、そのことを考えていた。
ふと、女は思った。
男は自分の名を呼んでくれたことがあっただろうかと。 そして、出会ってから別れる今日まで女の名を口にしたことがないことを思い出した。 それは男とのつきあいの中で一番気になっていることだったが、女自身がたいした問題ではなく何の意味もないことと思い込むことによってそのことを忘れるように努めていたことだった。
けれど、思い出した。
一度も名前を呼ばれたことがないということを。そしてそれは男が女を一度も愛したことがないのと同じだということを。
掌で包まれたバカラの中でマーブル模様がじわじわと回っていた。この二つの液体は多分、混じり合うことはない。
まるで自分たちのことのようだと声にせず女は笑った。
女はもう二度と口を付けるつもりがないと自分に言い聞かせるように今までより少し向こう側にバカラを押しやった。
  潤んだ目の端にきらきらと光る何かが映った。空になった両手の前に置かれたカクテルの輝きだった。
「アクアマリン」
顔を上げるとバーテンダーが微笑んでいる。
「今、僕が考えました。」
小さな円錐に華奢な足がついたグラスに水色のカクテル、その中でクラシュト・アイスの粒が踊っている。
「アクアマリン」
女はつぶやいてみた。
グラスを持つと女の指に並んだ石とグラスの中のカクテルが反射しあって輝き続けている。
少しの間女はその輝きを楽しんで、そして飲み干した。輝きごと。
 水色の粒の並んだ白い手がコーヒー色の厚いドアを押す。
「アクアマリンを」
バーテンダーは微笑んでシェイカーを振り、この前と同じ輝くお酒を女の前に差し出した。
女はお酒を見つめ、そしてバーテンダーに告げた。
「同じものをもう一つあなたに。私、優子といいます。」

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