「ジタン」 十河梨枝
アヤの髪の間をヨウの指がすり抜けてゆく。
長く、たくましいけれどしなやかな指でくり返しくり返しアヤの髪を梳く。
アヤは躰全部をヨウにあづけ、ただ、髪の中を波のように何度も通り過ぎてゆく熱を持った指の感触だけを確かめていた。
アヤのエボニーの髪はヨウの大きな手のひらの中で泳ぎ、空気を含んでふわりと落ちる。
時折エボニーはまるでその一本一本が意志を持っているかのように、 指に貼りつき、絡んではヨウを困らせた。
ふっと息だけで笑うのが目を閉じているアヤにも判った。ヨウはそれを優しくほどいて丁寧になでつけた。
ヨウは無造作にアヤの耳に触れる。ヨウの指に同化したようにアヤの耳が次第に熱を持つ。
熱の下げ方など知らないアヤはその火照った両耳を沸きあがってくるじれったさと一緒に持て余していた。
アヤは一瞬、呼吸ができなくなる。
シャワーの音と立ちのぼる温かな空気、そして泡の甘い匂いが痛いほどアヤを切なくさせるからだ。
「GARAM」。町の外れの、アヤの隠れ家。![]()
「GARAM」にはいつも異国の雰囲気が漂っていた。
鈍く光る真鍮のノブが付いたドアや、人の手が艶を成した木製の椅子たち 。
高い天井でゆっくりと回る送風機。
そして何よりもヨウのその風貌がアヤを幻想の異国へといざなうのだ。
ヨウはいつでもほとんど無表情で、 それでいてたまの微笑みは例えようもなく美しい。
両耳に生息するいくつものピアス。
触れたならその表情からは読みとることのできないヨウの中の熱いものを感じることができるだろう。
緩くウェーブのかかった髪の間に指を入れてしまえば、アヤの胸の奥に潜んでいる欲望をからめ取るに違いない。
どこの国かはわからない。熱帯かもしれない。
ただ、激しいスコールがやんで間もない湿ったぬるい空気の中を
あるいは濃い緑の大きな葉が生い茂った小道を彷徨っているような錯覚にアヤは「GARAM」へ来るたび陥っていた。
首をひねり、後ろに立つヨウを見上げると、すっかりブローされたアヤの髪はまるで何枚かのシフォンを重ねたように、その風に揺れてアヤの肩へとまた、落ちた。
手鏡を取り、シルエットを確認して椅子から立ち上がる。
アヤは背が高い。3センチヒールのサンダルでも鏡の中のヨウとは目線はほとんど変わらない。
立て掛けてある何の飾りもない大きな鏡の前で首を大きく左右に振ると、肩にようやく届いた髪が麻のセーターをシャラシャラとならした。
両手で髪をかき上げてから
「やっと、私の髪。」
そう言って悪戯に笑うアヤを見て、大きな鏡の中のヨウが少し困ったような顔で笑い返す。
アヤは、そのときのヨウの右に傾いた唇の形が好きだった。
「煙草を一本もらえる?」
ヨウの顔に一瞬とまどいの表情が浮かんだが、すぐにいつもの無表情に戻ってアヤをスッタフルームへと促した。
白熱光が壁を照らすだけの薄暗い部屋。
蛍光灯が辺り一面を青く光らせたフロアで二時間あまりを過ごしたアヤにとっては心地よい暗さだった。
部屋には籐のスツ−ルが二つ。コーヒーメーカーがブツブツと音を立て、蒸気を生んでいる。
腰を掛けたアヤにヨウが紺色の箱とマッチを差し出した。 マッチは遠い町のプールバーの名前が印刷してあった。
「ジタン。・・・・ジタン。GARAMじゃないのね。」
箱から一本抜き出しながら残念そうにマッチを擦った。
アヤは足を組んだ。左足のアンクレットがゆっくりと揺れている。
大きくジタンを吸い込んでから目を閉じる、と瞼の裏に小さな光が赤く灯っていて、それが少しずつ少しずつ近づいてくる。目の前いっぱいに広がる直前にアヤは瞼を急いで開けた。
ヨウはスツールを使わずシンクの縁にもたれ、自分のジッポでジタンに火を点けた。
厚く輪郭のしっかりした唇にジタンを挟むと、徐々に赤い輪がヨウににじり寄り、その先にはグレイの抜け殻ができる。
赤い輪を見つめていたアヤは、通り越した先の黒曜石の瞳に捕らえられて動くことができないでいた 。
瞳が唇がそしてその下のほくろがゆっくりと、そして確実にアヤの胸をキリキリと音をさせて締め付けてゆく。
目を逸らせないでいた赤い輪がアヤの瞳に焼きつくのを感じていた。
この4年で、ヨウに髪をあずけている時間が何にも代え難い程のものになっていたことを思い知らせるための刻印のような、そんな赤い光だった。
おそらくこれから何度もアヤの瞼の裏に灯るであろうことをアヤは知っていた。
ヨウは、識っているのだろうか。
その目で見つめられた女が間違いなく胸を射られ、虜になってしまうことを。
そして、その黒曜石の瞳に見つめられて時を過ごしたいが為に何度も「GARAM」のドアを開け、自分の髪を任せることを。
アヤは、ヨウのその瞳が自分だけに向けられるものでないことを承知していた。
それを欲しがっても手に入れることなどできないことも、それを口にすれば失ってしまうことも承知していた。
長い長い灰をトレイに落とすと、アヤのジタンはもういくらも残ってはいない。
惜しむようにそれを見つめてから、トレイに戻そうとすると既に吸い殻がひとつ置いてあった。
アヤはその隣にそっとジタンを置いた。
ヨウの二本目はもう半分ほどになっていた。
くゆる青い煙はまるで二人を隔てるブラインドのようにヨウの姿に紗をかける。
おそらくヨウが見つめるアヤもこんな風にぼやけてみえるのだろうとだろうとアヤは考えていた。
アヤは自分があきらめ始めていることに気が付いた。
何を?
「GARAM」での大切な時間を。
何からも縛られることなく過ごしてきたこの時代を。
そして、ヨウの存在を 。
アヤは立ち上がり、スタッフルームを出た。
蛍光灯のまぶしさに眉をひそめながらドアへと向かう。
ノブに手をかけるのと同時にアヤは両肩に熱いヨウの手のひらを感じ、動きを止めた。
幾度もアヤの髪を梳いたヨウの指から何かが伝わってくる。
アヤは目を閉じた。
振り向いた後のことは解っている。アヤはこれまで押さえていた感情をぶつけるだろう。
そしてヨウはそれを受け止め、その奥のアヤさえ知らないものまでもヨウの熱い指で掻き出すのだろう。
むしろその逆かもしれない。けれど、それもどうでもいい。
どちらがどうでも与え合い奪い合えば同じことだ。
「もう、来ない。」
アヤは、喉元の火のような固まりを飲み下してから振り向かずにヨウに告げた。
目を閉じたまま、肩の上にあるヨウだけに神経を集中させ、少し震えてくれるのを待っていた。
アヤの肩に乗ったヨウは一瞬力を込めてアヤを掴み、それからゆっくりと離れていった。
離れていくヨウにはもう、たった少し前のあの熱はなくなっていた。
「GARAM」を出るとまだ日は高かった。
真っ白な雲に向かって深呼吸をするアヤの頬にぶつかってくる風はもう冷たい。
整えたばかりの髪の間をいとも簡単に風が通りすぎてゆく。
秋が来るのだ。
車のシートに座ろうとして、ジーンズのポケットに手を遣ると空のマッチ箱が出てきた。
初めて吸った、おそらく最後のジタンに火を点けたマッチだ。
遠い街のプールバーの名をつぶやきながらそれをしばらく見つめ、思い切ったようにダッシュボードの中へ放り込んだ。