「彼女 01-告白」十河梨枝
「好きな人が同じベッドの中にいるのに何もできないなんて。
私がどんな気持ちであの夜を過ごしたか、あなたにはわからないのよ。」
告白された。それも女に。
私と彼女は同じアパートに住んでいた。 そのアパートは会社が一棟借り上げて社員寮にしていたもので住人全員が同じ会社の社員だった。
私は新しく導入した経理システムを修得するために福岡営業所から東京本社へ半年間の研修に来ており、地下鉄の乗り継ぎ方や満員電車からのスムーズな降り方、スーパーの場所、歩調の速度などを覚えているうちに、東京に出てきて早くも3ヶ月が過ぎようとしていた。
見知らぬ土地で暮らしてみたい。誰にも干渉されずに思うままに毎日を過ごしてみたい。などと心の中では思ってはいたものの、親のコネでやっと入った会社を辞めて都会へ出る勇気など持ち合わせておらず、福岡の田舎で両親と一緒に平凡に暮らしていた私にとって、この半年間の東京行きの研修は願ってもない夢のような話だった。
会社からの研修ということになれば、いかに厳しい両親であっても反対はしない。
私自身も半年間の冒険に心躍らせていた。
営業所で他の社員を指導し、円滑に経理作業を行うために自分一人が新しい経理システムをみっちり勉強して帰るという責任の重さなどこれっぽっちも感じてはいなかった。
東京を楽しんで帰ろう、雑誌に載っているショップを巡ってみよう、などと思っていたが現実は厳しく、甘く見ていた研修も私の予想を裏切っていて、とても会社帰りにショッピングなどを楽しむ元気など残ってはいなかった。
アパートと会社の往復で毎日が終わっていた。
そんなある日、こころなしか普段よりブーツの中の足先を冷たく感じながら、いつも通 りの時間にいつも通りの道順でアパートにたどり着くと私の部屋の前に彼女が座り込んでいた。
コートの中に曲げた足をすっぽりと包み込み、猫のように丸くなって。
話をしたこともなければ社内で顔を合わせたこともない。アパートの前で朝2.3度会釈をしたことがあるくらいの彼女がどうして部屋の前にいるのだ 。
戸惑っている私を下の方から見上げ、彼女はひとこと言った。
「カルボナーラが食べたいの。」
私の部屋には必要最小限のものしかない。
布団だけを福岡から送り、要るときに買い足したものが少しあるだけだ。
何もないという贅沢を初めての一人暮らしで知ってしまっていた。
そして それも休日に外出しない理由の中のひとつだった。 殺風景な部屋だが私は気に入っていた。
ただひとつ、床に立てかけた部屋の窓ほどもあるシーレの女性画だけが私の部屋を飾っていた。
この絵だけが東京に来てからの友人であり、都合のいい夜中のワインの相手でもあった。
「きれい。」
彼女はそう言って長い時間シーレの絵の前にいた。
なぜ私の部屋の前にいたのか、なぜ私なのか、それを尋ねようとして振り返ったが聞くのをやめることにした。
膝を抱えて絵の前に座る彼女を見ていると、それはたいした問題ではないように思えたし、彼女がグレーのダッフルコートに付いた埃をパンパンとはたいて部屋に入ってくる時に、二人が同じ円の内側にいることに気がついていたからかもしれない。
横たわる裸の女性が黒のコンテだけで描かれたその絵を見つめる彼女の熱い目が印象的だった。
生クリームがなかったので牛乳とバターで、ベーコンもなかったので前の晩の残りのチョリソーを薄切りにしてカルボナーラを作り、調理したパエリアパンのまま彼女の前に差し出した。 彼女はていねいに両手を合わせ、
「いただきます。」
と私に言ってからフォークを手に取った。
この部屋に客など来たことはなく、フォークは1本しか持っていなかった。私がいつも使っているものを出した。
「ここにくればおいしいカルボナーラが食べられるって思ったの。思ったとおり、おいしいわ。」
フォークを持つ手を留めて、彼女はそう言った。
あり合わせのもので作ったカルボナーラを幸せそうに頬張る彼女を私は少なからず好ましく思っていた。
顔を上げたのはそれっきりでその後、食べ終わるまで10分もかからなかった。
食事がすんで二人でコーヒーを飲み、しばらくして彼女は自分の部屋へと帰っていった。
結局、彼女とはほとんど言葉を交わさないままだった。
それ以来、私と彼女は会社帰りに食事をしたり、休日にはショッピングに出かけたりするようになった。
部屋でビデオを見て過ごしたり、たまには終電に乗り、新宿や六本木へ出掛けて始発まで飲んだり踊ったりすることもあった。
彼女は私にとってなくてはならない存在になろうとしていた。
残りの3ヶ月は初めのそれとは比べものにならないほどの速さで過ぎていった。
私の東京生活も確実に終わりに近づいていた。彼女 02 へつづく