「彼女 02-別れ」十河梨枝
「明日、浅草に行こうよ。」
会社帰りの地下鉄の中で、M&Mのピーナツチョコを口に放り込みながら彼女はそう言った。
金曜日の夕方、住宅街が終点の都営三田線は皆が寄り道をしているかのように空いている。
私は思いだしていた。
暗い地下をものすごく速いスピードで走り、たどり着いた地上はまるで未来都市のようにビルが建ち並び人がさざめく。地下鉄は魔法の箱、タイムマシンのようだ、と思い描いていた頃のことを。
そして、そのタイムマシンの中で私は、大声で笑い、チョコレートをつまみ、居眠りをしている。 階段を上り、当たり前のように足が覚えた部屋へと帰り、次の日もまたその次の日も同じことを繰り返しているうちに、もう地下鉄をタイムマシンなどとは思わなくなってしまっている自分のことを。
私は恐くなっていた。
この暮らしを失いたくないと願いながら、やがて来るその日に備えて少しずつ覚悟をし始めていた。
部屋に着くまでに電車は3回乗り換える。最初の駅のキオスクで買ったM&Mの袋は最後の駅で降りるとき、空になっていた。 彼女はそれを毎日繰り返していた。
昼間日の高いうちに「遊びに」という目的で出かけるのは初めてのことだった。
次の朝、彼女は首から一眼レフをぶら下げて部屋の前に現れた。気の向くままに自由に生きているような匂いがするが、彼女は規則正しい毎日を送っていて、前の晩いくら酒を飲もうが会社に遅刻したり、ましてや二日酔いで休んだりすることはない。朝昼晩と食後は必ず歯を磨き、日曜の晩はデンタル・フロスを使うこと、タバコはマルボロで一日12本まで。眉毛は剃っても腋毛は剃らない、ペディキュアは塗ってもマニキュアは塗らない、など決めごとはかなり多かった。
彼女のその美意識ゆえの変わった決めごとも私は可愛く思えて気に入っていた。
「今日のポイントはそのカメラなの?」
私は聞いた。
「そう、今日の私は将来報道カメラマンを目指す女の子なの。命を懸けてシャッターを切るのよ。だから眉毛は描いてないでしょ。」
「何の関係があるのよ、カメラマンとその薄い眉毛に。」
「やっぱり解ってくれてないんだ、私のこと。私はこんなにあなたのこと解りたいと思ってるのに。」
シーレの横で壁にもたれてそんな戯言をいいながら私の支度を楽しそうに眺めていた。
そしてときどきファインダーを覗き込み、シャッターを切った。とても命を懸けているようには見えなかった。
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赤、金、白のウィッグ、手拭い、カラスの羽のようなストール、仏像、せんべい。 子ども、老人、日本人、外国人。ひとり、団体、恋人同士。
浅草はあらゆる物、あらゆる国の人がごちゃ混ぜになって何となくしっくりまとまった不思議な空間というイメージの街。
その不思議な空間に迷い込み、私と彼女は夢中で出口を探した。
一日中、浅草という迷宮をさまようことを楽しんでいた。
そしてその余韻を楽しむために彼女と二人、私の部屋で酒を飲んだ。小洒落た若い女性なら、チーズか野菜スティックをつまんでワイングラスで乾杯というところだが、あいにく私の部屋にワイングラスは置いておらず、また、私も小洒落てはいなかった。 デュラレックスのゴブレットに角氷を入れ、私たちは話した。
話を肴に白ワインを流し込んでいた。 故郷のこと、映画のこと、初めての男のこと。新宿のこと、マツキヨのこと、自分のこと。
日付も替わり、空瓶を二本転がした頃、私は彼女をベッドに促し、その隣に体をすべり込ませた。
背中合わせで眠りについて見た夢はリリアーナ・カバーニの「愛の嵐」。
銃声の音で目を覚まして起きあがったときには夜が明けていて、彼女はもういなかった。
それから何日も彼女に会わなかった。思えば部屋の前に現れる前は3ヶ月もほとんど顔を合わせたことのない二人だったのだから、何日か会わないことくらい、そうおかしくもないと思っていた。
避けられているな、と気付いたのは浅草から二週間ほど経ってからのことだった。
地下鉄のホームで電車を待っていると、彼女が階段を下りて来るのが見え、当然、私のところへ駆け寄ってくるものだと思っていたから彼女が私の腕に掴まって来られるように、バッグを右肩に掛け替える準備をしていた。
が、彼女は来なかった。階段を下りてすぐの場所からちょうど来た電車に乗り込んだのだ。
理由は皆目見当もつかなかったが探るようなことはするつもりがなく、振り回されたくもなかった。
元々彼女は気まぐれだったし、私も来週福岡へ帰る。前の生活に戻るだけだ、彼女に出会うまでの。 東京へ出てくるまでの。ひとつひとつ自分に言い聞かせるように口に出してみた。
一人で乗り込む満員の電車が時を遡ってゆくタイムマシンのように思えて、会社に着く頃には彼女の存在を忘れてしまっているのではないかと本気で考えていた。
そして、少し寂しいと思っていた。
「カルボナーラ、食べていかない?今日はまともな材料があるの。」
最後の夕食はカルボナーラと決めていた。初めて誰かと食べた食事だったからか、彼女と食べたからなのか、 それとも今日、彼女がドアの前に座り込んでいることを私が知っていたのか。
スーパーの袋を掲げて見せてから私は鍵を開けた。間取りが全く同じというせいもあるが、彼女は私の部屋に 何の違和感も無く存在していた。驚くほどこの部屋に溶け込んでいる彼女が、そして彼女を取り巻く空気が 二人の3ヶ月間のすべてを語っているような気がしていた。
彼女は前と同じように掌を合わせて「いただきます」を言ってから食べ始めた。
「前の方がおいしかった。」
彼女は私の方を見ずにそう言った。
あり合わせの、カルボナーラもどきの方がおいしいと言うのはただ単にその味のせいだけではないことを二人とも知っていた。知っていて黙っていた。
この食事を終え、夜が明けたら私は福岡へ帰る。そしてもう二度と会うことはないかもしれないのだ。
この目の前にいる、気まぐれでわがままな猫のような彼女を失うことがそんなに寂しいことなのか、自分自身に問いかけてみたが答えようがなかった。
初めての時と同じように、ほとんど言葉を交わすことなく黙ったまま食事を済ませた。
「明日は送らない、用事があるの。出かけなきゃならないから。」
彼女は靴ひもを結びながら下を向いたままそう言った。
「じゃあ、これでさよならね、いろいろありがとう。楽しかった。本当に。元気でね、たまには電話するから…。」
ありきたりな言葉を思いつくだけ並べ立てながら、どういえば、今の気持ちが彼女に伝わるのかを考えていたが、結局彼女抜きでは語れないこの3ヶ月を惜しむ気持ちがうまく言葉に出来るはずがなかった。
靴を履き終えた彼女は立ち上がり、私の方へと向き直した。
「好きな人が同じベッドの中にいるのに何もできないなんて。私がどんな気持ちであの夜を過ごしたか、あなたにはわからないのよ。」
泣いていた。涙を拭うこともせず、私の目をじっと見てそう言ったのだ。
私は私の中にある何かに動かされ、彼女にくちづけた。
友達のような、同志のような、恋人のような、妹のような、そんな彼女をこれから失くす私の気持ちは「くちづけ」というかたちでしか表すことができなかった。
彼女がさっき結んだ靴のひもは、もう私の前で解かれることはない 。
判っているのはそのことだけだった。
帰る日の朝、彼女の部屋の前まで行った。
少し時間があるとか、最後に挨拶くらいはとか、誰にでもない言い訳をしながらドアの前までやってきた。
ノックをしかけて、やめた。
私たちは昨夜さよならをしたのだ。
バッグを提げ直して駅へと向かった。
もう12年も前のことだ。あれから一度も彼女とは会っていない。
しばらくして彼女は会社を辞め、アパートを出たと人伝に聞いた。私も結婚し子供が生まれ、せわしない毎日を送っている。 これから先、彼女に会うことはないのだろう。
けれど、洗濯物を揺らした風に乗って、自転車のペダルを踏んだ瞬間に、彼女の唇の感触がふと甦ることがある。
あの朝、ドア越しに聞いたジャニスの「ミーアンドボビーマギー」と一緒に。