「紅茶」 十河梨枝

カランとカウベルが鳴る
あの人が来たのかと思った
視線をまた窓の外の通りに戻す
来るはずがない
オフィス街は息つく暇もない
肩がぶつかる また動き出す
誰も見てない自分しか
薄桃色のエナメルの指で
ティーカップを口元へ運ぶ

目を閉じてみる
あの人が浮かぶ
キャメルを深く挟んで
掌で顔を覆うようにして吸うところ
目が合うと右肩をくっと上げて
困ったように笑うところ
そして重いジッポ
変わらない昔のままのあの人
ひとさし指で私のあごをなぞって
口づけを誘うところ
「行こう」と瞳だけで私を促すところ
まんまとそれに乗る私も
変わらない昔のまま

オフィス街はせわしない
かつての私が通り過ぎる
自分だけしか見ずに
人の流れのままに
冷めたレモンティーは苦いだけで 泣きたくなる
飲み干したティーカップをソーサーへ戻す
紅茶を飲む間の25分

私は初めて夫を裏切っていた  

 

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